【緊急プロジェクト★ミャンマー難民支援のご報告】

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                    【ミャンマー難民支援のご報告】

先日タイとミャンマー国境沿いまで皆様からお預かりした支援物資届けてきました。
銃撃されるなど・・まるで映画のような現実と、外に出して良い情報と出してはいいけない情報など見聞きしすぎて精査のために発信が遅くなりごめんなさい、、、、。
ミャンマークーデター後、冷酷な軍により1000人を超える市民が虐殺され生きたまま家を焼かれ、家族の遺体を取りに行った人ですら無差別に殺されようなとんでもないことがおこっていて、タイとミャンマーの国境沿いに数百万人の人が避難していて、避難している市民が赤子も老人もいてジャングルの斜面に穴を掘って隠れていたり土の上に寝ていることを知ったのが今回の行動の発端だった。
13年前よりタイ北部のチェンマイに当社のリユース店モノココの店舗があり北部の山中では12月に多くの人が寒波で凍死していることも知っていた。
モノココチェンマイ行きのコンテナに毛布を沢山いれて山の民に寄付した経験もあった。

「そうだチェンマイ行きのコンテナに毛布や寝袋、ブルーシートを入れて運びそこから国境まで3時間なので送って一人でも多くの命を救おう!」

そう思い、WAOJEのネットワークを使いゼロファイターの井本さんに辿り着いた。
WAOJEとは世界28支部ある日本人経営者のネットワークで華僑のような繋がりと結束をイメージしてもらうと早い。
私は65名ほどいるWAOJE札幌支部の支部長もさせていただいている。
タイで商売をしているので伝説のゼロファイターの名前はなんとなく聞いていただが実際に実在しているゼロファイター井本さんを知り合って、歴史に残るであろう偉人が今自分とこうしてパートナーとして支援を遂行できていることに何度も驚いた。
井本さんは日蓮宗の元僧侶。
イエメンに行ったことで人道支援に目覚め宗派を超えた支援団体を作ったり、ミャンマーでは前の軍事政権時代に各少数民を回り酒を酌み交わしてネットワークを作り少数民族をまとめ上げ少数民族の部族連盟を作り上げミャンマー政府と渡り合い先ごろの民政化に大きな貢献をした。

少数民族の信頼をもっとも得ている地球人で、少数民族は井本さんいや日本へのお礼として大東亜戦争のインパール作戦で亡くなった16万人の英霊の遺骨収集をボランティアとして始めてくれることになりそれは軍が凶暴化して危険な状況の今でも続けてくれている。

当時国境地域では日本軍の前線基地がありアジア開放に命を懸けた日本人は当時より地域の人から愛され未だにタイの人達から尊敬されいている。日本兵の小堀の名前を知らないタイ人はいないと断言できる。
YouTubeでクンユアム編を近日公開するので見てほしい。
井本さんから国境付近の街の一つメーサリアン市のカレン族のリーダーを紹介され彼のチームで国境の川を越えてミャンマー側のジャングルの中にいるミャンマー難民に届けてくれることなった。

日本では私のSNSの呼びかけに北海道だけではなく海外からも支援物資や支援金が東日本大震災で活動したときのようなスピードで集まった。

社内では支援するなら社員のことを考えて社員にという声があり退職した者もでた。
物資や支援金が集まっただけだはなく、心が集まった。
応援の声、絶対に無事に届けてほしいとの声、本当に多くの人の心を背負った。
10年前の東日本大震災の時に多くの希望を背負い活動してきた経験から、この大きな思いは責任であり自らが現地に行き届けるべきだと考えタイに渡った。
モノココバンコク社長の伏見、てっぺんバンコクの大嶋俊也、現地で遺骨などの活動をしている今西さん、そしてモノココチェンマイ店のタイ人たちとパーティを組み、4tトラックに支援物資をのせてメーサリアンまで日本軍が作った国道108号線を辿り車で向かった。標高1000メートルを超えるジャングルを移動しながら小道を作った日本軍や従事した地元の人々ががいかに大変だったか
想像しながら、今でもこうやって役立っていることに日本人として誇りに思った。
カレン族のキャンプに着き、贈呈式をしたいのでカレン族のリーダーが揃うまで待ってほしいと言われ30分ほどキャンプの中を歩く。
すぐに驚いた。普通車で尋常ないほど怪我をした人が普通の車で運ばれてきて目の前の平屋に入っていった。
最初は意味不明だったが小屋の中に入れてもらいカレン族の説明で状況を把握できた。本当に驚いた。
中にはベットがあり同じように怪我をした人が中に何人もいた。
タイ語で話しかけるが伝わらない。
ミャンマー側で軍にやられた人達だったのだ。
後から教えてもらったが三日間ルールがあり、軍事政権のタイが難民を一切受け入れない水際対策をしているがこの地区だけ三日間密約がありミャンマーのけが人を入れることができているらしい。3日経ったらどんなに死にそうでも川を渡ってミャンマー側に帰される。
今回日本円で44万2121円集まったが運搬費にと但し書きをつけてくれた人だけでも16万円を超える。
実際に日本側に人件費やコンテナのスペースを割きここまで持ってくる配送費は30万円を超えるが一人でも多くの人命を救いたい思いから1万バーツ(約33000円)のみ現地でのトラックチャーターやガソリンだとしていただく。運搬費にと言ってくれた人達の気持ちも大事にしたいからであった。
端数は自分のポケットから出し日本円で約42万円と物資をリーダーたちに確かに手渡した。
ありがたいことにカレン族から表彰状をいただいた。
これは協力いただいた皆さん全員の物だが株式会社ルーツ・オブ・ジャパンの名前になっている申し訳ない。
次からは日本の皆さんという名前にしてもらおうと思った。
その夜、カレン族のリーダーと酒を飲んだ。
酒を飲んだ外交は得意分野である、天才だという人もいる。
自分でもまさにそう思う。人脈の半分以上は酒の力だ。
長時間一緒に飲んだのでいろんな話が出来た。
友情が生まれるのに十分だった。
カレン族だけでも400万人いる。
西洋諸国が勝手に植民地にして国境をひいたのでカレン族は国境を関係なく川の向こうにもこっちにもいる。
カレン語があり国境は彼らにはないのだ。
ミャンマー側の今困っていることも沢山聞けたがここには簡単にまとめる。
近隣のミャンマー側の山中に3000人の市民が家を追われ逃げてきていて今必要支援は、
①食糧支援。特に米。米を一か月3000人分を計算すると66万円
②農業教育支援。長期化するので自分たちで農業をしたいと考えている避難民が多い。教育する家屋
③学校
国境を越えて難民に会いたいと言ってみるが無理だと言われた。
翌日まだ地元のウィスキーが残っている私達も早朝次の目的地に向かったが、カレン族たちも朝7時からボートで川を渡って配送に向かった。
翌日タイのニュースで国境沿いで日本人の支援物資を載せたボートがミャンマー軍の砲火にあったと報道された。
皆さんからの荷物が撃たれてしまったのだ。
しかし船に穴は開いたが無事に皆さんの心は命の危機にあるミャンマーの人の明日に繋がりました。
未だ日本政府は何のミャンマー支援もしていません。
ミャンマー人と日本人の繋がりは歴史を見れば明らかです。いつからこんな情けない国になってしまったのでしょうか?
今回日本の物資支援としてはこのプロジェクトが初めだそうです。
私は思います。
今回の支援は無事に終了しましたが、これは終了ではなくスタートだったんだと。
メーサロンやメーサイ、モン族の勢力地域などではもっと過酷な状況で気温ももっと低くマイナスになることも。
さらに断崖絶壁が多く水にも困っているサバイバル生活をしているそうです。
日本から物を送ると一か月かかりますし、世界的なコンテナ不足で当社の輸出便も本当に困っているのでお金を集め現地調達し私の仲間やスタッフが届けるようなプロジェクトを急遽作りたいと考えています。
私も多忙を極めてますがまた自ら行けるように努力したい。
長文になりましたが今回の支援の報告とさせていただきます。
今編集してもらってるので近日YouTubeでも公開させていただきます。
ご協力いただきましてありがとうございました。
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